深志高校33回卒業生の皆様

2011年10月15日(土)、深志高校33回生、卒業30周年記念事業が盛会の内に終わりました。深志の地に集まった140名余の仲間達。すてきな時間を持つことができました。

今後は、とんぼ33会(松本深志高校33回卒業生)の交流の場として、同窓会等の案内やお知らせ等をしていきます。
代表メールとこのブログは、とんぼ33会理事の熊谷(6組)が管理しています。代表アドレス宛にいただいたメールは、宛先を書いていただければ各クラス代表に転送し連絡をとります。
代表メールのアドレスは tonbo33kai@gmail.com です。

今後の活動予定
・年1回、とんぼ33会の同窓会を実施していきます。
2021年度の同窓会も、新型コロナウイルス感染症予防ということで行いません。

住所・連絡先等の変更をお知らせください
・住所や電話番号等の変更をお知らせいただければ、名簿に反映し、次回からの案内を変更先にお届けできるようにします。代表メールのアドレス tonbo33kai@gmail.com 宛てに連絡をお願いします(メール管理は、とんぼ33会理事・熊谷(6組)が行っています。)

2011/08/05

嗚呼、花の応援団(副実行委員長もつぶやきます)

実のところ、事務局長・谷川氏とのメールのやりとりをしていると、当時も今も表には出せない事柄の多さに驚く。
「こんなことは人には言えないよなぁ。」
と思ってしまうことばかりだ。だからこそ楽しい。そうした一つ一つのエピソードを思うたびに
「深志のよさって、おおらかさ、だよね。」
と感じる。おおらかさってのは、俺たちの高校時代の宝物だろうな。その延長上に今がある。

今回の記念事業。30年ぶりのとんぼ祭みたいなもんだ。楽しもう。

18年前、中学1年生を担任していた時の学級通信に応管のことを書いていた。
中学の学校祭の前。きっと合唱を全力で歌うと楽しいよってことを伝えたかったんだと思う。今となっては、記憶にないことも書いている。

熊谷賢一(6組)


タイトル:嗚呼、花の応援団

「ようこそここへ、遊ぼうよ、パラダイス」
と歌ったりしているのは給食直後のH嬢とK嬢だ。

給食直後の教室には、元気が歌声が響いていたりする。一人が歌う。知っている曲であればもう一人も歌う。さらにもう一人…と、歌声の輪は広がっていく。なつメロ、演歌はもちろん、童謡あり、文部省唱歌あり、なんでもござれで歌っていく。
「その声で合唱も歌ったら?」
と言ったことがあった。が、その時はM嬢に、
「合唱とこういう歌は違うの!」
と一蹴されてしまった。

冷静になって考えてみれば、自分の姿を思い浮かべてみれば、確かに合唱とこの手の歌は違う。ただ、これだけは言える。
「歌っている顔はとてもいいぜ! 輝いているぜ! 楽しそうだぜ!」
好きでやっていることは楽しい。

回想〜1978年8月下旬〜

高校時代、僕は応援団(正確には“応援団管理委員会”。通称“オ-カン”)に入っていた。
高校にも学校祭がある。我が愛する“オ-カン”は、学校祭前の2週間の長きにわたり合宿所に泊まりこみ、学校祭の準備をする。一つはモニュメントと呼ばれる記念碑作り、もう一つはア-チと呼ばれる入場門作り。さらに一つは学校の周りのドブ掃除。も一つおまけに夜間の見回り。
詳しく書いていくときりがない。その一つ一つに思い出がつまっている。

“オ-カン”は、モニュメント作りに全てをかける。
授業が終わる4時から、モニュメント作りが始まる。
団長さん(「○○先輩」などとやわな呼び方はしない。すべて「さん」付けである)が夏休みに書いてきた設計図を見ながら、角材を切り、削り、釘を打ち、ベニアをはり、ガムテ-プをはり、やすりでみがき、ペンキを塗り、と毎晩12時は当たり前で、1時や2時に終われば早かったなんてことになる作業を続ける。
ドブ掃除だって徹底的にやる。当日学校に来てくれるであろう方達に不愉快な思いをさせまいと、悪臭もなんのその、徹底的にやる。

一般公開が近づくと、ア-チ作りを始める。まる2日間、ほとんど寝ないで作り続ける。あわれ“オ-カン”の面々は学校祭当日には精も根も付きはて眠る。眠り続ける。学校祭中は疲労を回復することに専念する。そして4日間にわたる学校祭が終わる頃、エネルギ-を回復させ、冬眠からさめた熊のようにうろつき始める。

学校祭の終わりはファイヤ-スト-ム。
学校祭のために作った様々なものが山と積み上げられ、火を放つのだ。2週間作り続けたモニュメントも灰になる。部活やクラブの発表で全てを燃焼させた仲間達が、火を囲んで歌い、走り、踊る。“オ-カン”は指揮をする。指揮と言えばかっこいいが、かっこいいのは団長と副団長だけで、他の面々はひたすら水くみを続ける。それまでの頑張りと、人の渦と、ばらまかれる水と、もえたぎる火に興奮した仲間達がとびこまぬよう、火と踊り続ける人の輪の間に入り番を続ける。
感激の涙を流す仲間達を横目に“オ-カン”は水道へひた走る。1年の時は、バケツに水を入れて2年生に渡していたら2時間が過ぎていた。高校1年目の学校祭のファイヤ-スト-ムはバケツの水とともに消えた。
俺ゃ、学校祭そのものの思い出は少ないけれど、学校祭準備で眠かったことと、先輩にこきつかわれたことと、走り回る人を疲れ果て放心状態で眺めていたことは忘れちゃいない。
「なんでこんなことしてなきゃいけないんだ」
と思ったことはしょっちゅうだったし、無理ばかり言われて、いつも怒られて、先輩の言う通り動いて、何やってんだとただただ悲しかったけれど。

回想〜1978年4月上旬〜

高校へ入学したら、応援練習があった。
授業が終わると、和太鼓がドンドンとなって、“オ-カン”のお兄様方が教室においでくださり、
「何やってんだ! 屋上へ行け!」
と大声で叫んでいて、なんだか知らんけれど屋上へ行くと、1組から8組までがズラリと並ばされて、“オ-カン”のお兄様方が3回だけ歌を歌ってくれて、2回ほど自分達で練習したら、
「歌集を置け!」
と言われて、次からは歌集を見ないで歌を歌わされて、歌詞を間違えたり、曲を間違えたりすると前に出されて立たされて、歌えるようになるまで何回も何回も怒鳴られ、耳元で、
「オメ〜はやる気があるんか!!!!」
と叫ばれ、あっという間に2時間が終わってしまうのだ。

恐怖心は人間を動かす。
初日の最初の歌声がどれだけ小さかろうと、その日の終わりにはでっかい歌声に変わっている。人間て不思議なもので、
「これで精一杯だ!」
と思っていても、耳元でガンガン怒鳴られた時にゃ、自分でも驚くほどの大声が出せる。女子の蚊のなくような歌が、あっという間にたくましい歌に変わっている。
「えっ? こんなに大きな声、出たわけ?」
ってな感じ。おまけに、5日間で20曲を覚えちゃったもの。1日5曲だぜ。記憶力のいい時期ではあるけれど、正気の沙汰じゃありませんぜ。

でもやっぱり楽しくはなかった。全然楽しくなかった。どれだけ大声で歌えようと、たとえ5日間で20曲を覚えようと、応援練習中は楽しいなんてこれっぽっちも思わなかった。思えなかった。
だけど。応援練習が終わったその日、僕は“オ-カン”に入ることにした。

回想〜1978年8月下旬〜

ファイヤ-スト-ムでは歌を歌う。4月に懸命に覚えた歌を歌っていく。
間違えたって誰も怒鳴りはしない。耳元でガンガン言われることもない。なんだかわからない感情がわいてきて、歌っているようだ。
水くみをしている僕は、歌っている余裕はなく、先輩の
「バカヤロ-!何やってんだ!早く水を持ってこい」
の怒鳴り声に右往左往しているだけだったけれど。
でも、大勢の歌っている姿を見るだけで、なんだか嬉しくなってきていた。歌が持っている不思議な力にひきずりこまれた。

ファイヤ-スト-ムが終わるその時、団長のエ-ルが響いた。そして…。
「今宵いま 祭の灯 消え果てし…」
静かに、だけど強い歌声が聞こえてきた。僕も歌った。
「これで学校祭が終わる」
と思うと、なんだか寂しかった。準備を含めると3週間、この時のためにやってきたことを思い出していた。1番、そして2番。歌声は大きくなっていった。

回想〜1980年8月下旬〜

3回目のファイヤ-スト-ムが終わろうとしていた。
こきつかわれていた1年の時とはまた違い、準備を進め、製作を進める側になっていた。
2年前と同じく、小さくなった火を囲み、数百名が声を合わせて歌っていた。
「今宵いま 祭の灯 消え果てし…」
この歌は学校祭の終わりの歌。1年に1回だけ歌う歌。在学中には3回しか歌えない歌だった。3回目の歌だった。一言一言をかみしめながら歌った。

“オ-カン”に入って応援練習を2回やり、歌わせる側になったけれど、やはり楽しくなかった。恐怖を感じさせて歌わせるなんて、歌のよさを殺してしまうことなんだし。

じゃ、なぜ僕が“オ-カン”に入ったか?
それは、応援練習が終わった後に30分ほど歌う、応援歌や校歌ではない“オ-カン”が歌い継いできた歌を歌う彼等の表情がとても楽しそうだったからだ。歌うことが楽しいから歌う。そんな風景にあこがれたからだ。
ファイヤ-スト-ムや応援の時に歌うのは楽しかった。大勢で一緒に歌う楽しさだった。応援練習では嫌いだった歌たちだったけれど、楽しさを感じたその時、そんな歌たちを好きになることができたんだ。

---通信おしまい---
びっくり!備前が写真を持っていた。
高3のとんぼ祭のファイヤーストーム。


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